映画「国宝」 主演(吉沢亮) 共演(横浜流星) 監督(李相日)
公開94日間で、観客動員数946万人、興行収入は133億円を突破し、大人気となっている映画「国宝」。
この記事では、なぜここまで映画「国宝」が人気を博しているのかについて、考えたいと思います。
ネタバレしない程度に簡単にあらすじも書きますので、まだ見ていない方も、もう見終わった方も、ご覧いただければ幸いです。
先入観を持たず映画をご覧になりたい場合は、見終わった後にお読みいただけると幸いです。
あらすじ
やくざの子供として生まれ、歌舞伎役者の花井半二郎に引き取られた、吉沢亮さん演じる喜久雄。
そして、歌舞伎の名門に生まれ、花井半二郎の子供である、横浜流星さん演じる俊介。
喜久雄と俊介が、切磋琢磨しながら、芸を磨いていく物語となっています。
人気の秘訣
なぜここまでヒットしたのか。
三つ、理由を挙げたいと思います。
美がすごい!
一つ目の理由は、とにかく絵力が凄いからだと思います。
具体的には、美が凄いです。
映画の予告やポスターには、おしろいを塗った喜久雄と俊介が度々登場します。
二人が舞台に向かって、女形としてポーズをとる姿。
誰もが息をのむ美しさ。
歌舞伎好きの方も、歌舞伎を見たことがない方も、圧倒的な美しさを感じることができます。
日本文化の特有の美とも言うべきものがそこにあって、日本人の美意識に訴えてきます。
そしてその美しさは、国境を越えて、外国の方にも響くものなのかもしれません。
この映画は、徹底的に美を追求している作品と言えると思います。
「国宝」という題名が持つ魅力
歌舞伎は、重要無形文化財に認定されています。
そして、この作品は、歌舞伎役者である人間国宝が登場します。
喜久雄と俊介が、切磋琢磨しながら、芸を磨いていくその先には、人間国宝という存在があります。
では、なぜ題名が「人間国宝」ではなく「国宝」なのでしょうか。
私の考えですが、「人間国宝」と言うと、どうしてもその個人に焦点が当たります。
その個人の素晴らしさ、職人技などをテーマにする場合は、それでいいと思います。
ですが、この作品が扱ったのは、歌舞伎という重要無形文化財に翻弄される、喜久雄と俊介、そして周りの人々でした。
映画のテーマは、個人としての人間国宝を越え、重要無形文化財としての歌舞伎を越えて、「国宝」とは何かを、見た人に考えさせるものでした。
「国宝」は読んで字のごとく、「国の宝」。
国の宝とすべきほどの価値があるものとはどういうものなのか。
「国宝」と見ただけで、人々の心を惹きつける、そんな題名の持つ力も、この映画がヒットした要因の一つになったのではないでしょうか。
世襲、思い通りにならない人生、そしてそれでも追い求め続けるもの
三番目の理由は、映画を見て初めてわかる魅力です。
この作品は、美しさを追求していると書きましたが、一方で、醜悪で残酷なものも同時に出てきます。
美しさと醜悪さは表裏一体。
それはまるで天使と悪魔が交互に出てくるかのようです。
歌舞伎は世襲が当たり前の世界の中で、喜久雄は芸を磨くことで生き残ろうとします。
可愛がってくれた、親代わりの花井半二郎は、喜久雄に言います。
歌舞伎は世襲の世界であり、自分という後ろ盾がなくなれば、お前の生きる道は、相当厳しいものになるから、覚悟しておけと。
そのことを、映画では、ある一言で言い現わしていますが、ネタバレになるため、伏せたいと思います。
その言葉は、残酷で、戦慄さえ覚えるものでした。
人気の絶頂でも、どん底まで落ちぶれても、ひたすら舞い続ける。
喜久雄には、舞い続けることしかできないのです。
その喜久雄の舞いは、どんなに残酷で、美しいものでしょうか。
舞い続ける喜久雄は、どこを見て、何に見られているのか。
芸を磨き、芸に魅せられ、芸に取り込まれ、それでも芸を追い求める。
外から来たよそ者である喜久雄が主人公だからこそ、芸の美しさと残酷さが、より際立ちます。
映画は三時間という長丁場。
個人的には、長く、そして苦しいというのが、率直な感想です。
映画が終わると、ほぅっと、長い溜息を吐いてしまう。
そして、よいものを見させていただいたという感想を持ちました。
美を追求する道は、それくらい険しい道。
でも見てしまう。
それは美しいから。
そして、その圧倒的な美の舞台裏には、美を求める役者のとめどない欲望と、それを支えたり振り回されたりする家族や恋人の想いが、幾度も交錯する人間らしさが溢れていました。
この作品は、究極の人間ドラマとも言えると思います。
原作者 吉田修一について
原作は、吉田修一さんの小説「国宝」です。
作者の吉田さんは、3年間にわたり黒衣として舞台裏を取材して執筆されたようです。
丹念な取材に基づく描写と、息をつかせぬ物語の展開で、小説としても天下一品です。
吉田さんが描きたかったのは、歌舞伎の美しさももちろんあったと思いますが、その背景にある人間模様だったのではないかと思います。
自分の人生は自分で選択するというフレーズが巷に溢れています。
ですが、この作品を見て、本当にそうだろうかと考えさせられました。
喜久雄にしろ、俊介にしろ、確かに自分で選択する場面はありました。
ですがそれは、かなり制約された中での話でした。
喜久雄は、親がやくざで、親を亡くして、身寄りがない状態。
俊介は、歌舞伎の父親を持ち、世襲で将来を期待された存在。
その二人が交わり合うことで生まれる友情、嫉妬、尊敬、衝突、摩擦、すれ違い、和解、決別。
どれも、彼らが選択したのではなく、そうならざるを得なかった、必然のように思えるのです。
そしてその必然を前にして、もがき、苦しみ、耐え、それでも前に進もうとする二人を目にして、私たちは共感し、心を揺さぶられるのではないかと思います。
前に進むその先にあるものこそが、国宝であり、美であり、境遇や身分を越えて、最終的にはその一点に集約していくという、役者の生きざまを、まざまざと見せつけられた気がしました。
すごい小説だと思います。
おわりに
何のために生きて、何をするのか。
何に魅せられて、何を追い求めるのか。
喜久雄の生涯を見て、そんなことを考えさせられた映画でした。
是非、ご覧ください。